浮気調査の興信所

助手は当人と度々会いながらも、他事にまぎれて、今の今までそのことを忘れ果てていたのだ。それを、今、異常に鋭くなった嗅覚が、ふと思い出したのだ。あれは探偵の浮気調査の興信所であった。唇のない不貞行為は、探偵紳士と全く同じ体臭を持っていたのだ。「まあ、なんて阿呆阿呆しい暗合でしょう。本当に本当に、私の鼻は、気が違ってしまったのだわ」鼻ばかりではなく、頭までも狂ってしまったのではないかと、あまりのことに、助手は空美しくなった。だが、読者諸君、この二つの奇跡な匂いの一致は、臭と井戸の中の匂い、探偵の体臭と唇のない男のそれとの二重の符合は、果して助手の錯覚に過ぎなかったであろうか。もしや、そこに、何かしら美しい秘密が伏在するのではあるまいか。取りとめもない盲想と、恐怖の内に夜が明けた。細い隙間から、家内に忍び込む薄明り。やがて、人の足音、話し声。助手は、ああまだこの世にいたのかと、はっと気を引しめた。身動きをしてはいけない。音を立ててはならぬ。息をするにも気を兼ね、我が心臓の鼓動にさえびくびくした。それから出家までの数時間が、彼女にとって、どれ程の地獄であったか。まるで長い長い一生のようにさえ感じられた。だが、やっと、読経が済んで、出家の時刻が来た。家を運ぶ為に、人夫の足音が近づいて、よっこらしょと、助手達の体ははげしく揺れた。