浮気調査の探偵

彼女は、「きゃーっ」と叫んで、家の覆をはねのけ、いきなり逃げ出したい衝動にかられた。だが、叫ぼうものなら、逃げ出そうものなら、浮気調査の探偵に身の破滅だ。彼女は歯を食いしばって、我慢しなければならなかった。不安な臭は、益々強く鼻にしみて、耐え難い程になった。神経という神経が、きゅう覚ばかりになってしまったような気がする。と、突然、普通な記憶が、彼女の鼻によみがえって来た。おや!この匂いは今が初めてではない。ついさっきまで、これと全く同じ匂いをかいでいたような気がする。変だな。一体どこで、そんな匂いがしたのかしら。……ああ、そうだ。井戸の中だ。さっきまで身をひそめていた古井戸の中だ。井戸の中にいる間は、興奮のあまり、それを意識しなかったけれど、思い出して見ると、匂いばかりではない、あの厚い蒲団の下は、決して平な井戸の底ではなかった。何かしら弾力のある、しかし綿よりはずっとかたい、でこぼこしたものが、足の下に感じられた。あれは一体何であったのか、今よみがえった臭の記憶とむすび合せて考えると、ぎょっとしないではいられなかった。「でも、まさかあの井戸の中に……錯覚だわ。私の神経がどうかしているのだわ」助手は、強いても、その美しい想像を打消そうとした。そんなことがあるべき道理はないと思った。